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白石島概観
 歴史 

島の歴史


黎明の時代〜古代〜


白石島には、古墳等の遺跡もあり、縄文式、弥生式の土器の出土も多く、 古代から相当の文化が栄えていたと思われますが、その詳細は明らかではありません。
遺跡内部写真
遺跡の内部の様子

空海像
開龍時境内に立つ空海像

空海の修行〜平安時代〜


平安時代には、唐の都で密教を修めた弘法大師(空海上人)が京の都への帰路、 白石島に寄港し、巨石の下で37日間の修行を行ったと伝えられています。
島を去る時に1寸8分(約6cm)の尊像を刻み島へ残していったと言い、 島民はこれを本尊として大師堂を建立したと言います。これが後の開龍寺につながって行きます。

源平の合戦


源平の戦いでは、目の前の海で壮絶な戦が繰り広げられたと言い、 その戦いの遺物の漂着物が数多く島に流れ着いたと、 島の人たちは今でもまるでその目で見たように語り継ついでいます。
この霊を慰めるためのための供養が後に白石踊りとして成立したと言われています。
合戦

大名船絵図
大名船を見分けるために用いた絵図

灯籠
水野勝種寄贈の灯籠

水野家時代 〜戦国、江戸〜


関が原以前には、福島正則による領有がなされていましたが、 広島城無断改築の咎により改易。福山藩水野家の領有となります。
この水野家時代が、白石島にとって大きな意味を持つようになります。
水野家は、領域の農地改革を推し進め、領地内の小作農をゼロにするなど、 優れた政治を行いました。
そして、この水野家の治世に、天和2年(1682年)より白石島の干拓が行われ、 また、元禄綿も栽培も水野家の指導の元にもたらされました。
水野勝成の築城した福山城には白石島の石が多く用いられているという。
さらに、江戸初期に潮待ちの港としての白石港を整備したのも水野家の治世の事となります。
海路にて備後の鞆から下津井へ向かう参勤交代の大名が白石島で風や潮の変わり目を待ったと言います。 またさらに、開龍寺を現代まで直接的に連なる形で整備したのは、水野勝慶です。
水野家四代目当主水野勝種が開龍時に寄進した石灯籠は、現存する白石の石最古の灯籠として 未だに開龍時奥の院に立っています。
しかし、白石島に大きな影響を残した水野家にも子孫の断絶が起こり、
白石島は幕府の直轄となる天領へと移行します。

近代


やがて明治政府の治世となりますが、天領だった白石島は、政府の直轄地となります。
明治35年、政府が直轄地を民間に払い下げをしようと計画した事から、一大騒動が持ち上がります。
時の開龍寺住職教海俊定師は「本島公有林を他郷の人の所有になす事は、本島民の死活問題と考え」(「白石島山林史」より) 猛烈な運動を開始しました。
多数の脅迫などもあり、身の危険を感じる事もあるような状態でしたが、 島の有志住民たちは私財を投げ打って借金をして白石島が島外の財閥に売り渡されるのを防いだのでした。
山林史表紙
白石島山林史表紙


名勝指定調査
名勝指定調査の様子

現代


近年では、白石島は昭和9年に瀬戸内国立公園に指定されました。